【歳時記】3月25日 今日は何の日?:電気記念日、大塩平八郎の乱 など

電気記念日

1878(明治11)年3月25日、東京・虎ノ門にあった工部大学校(現在の東京大学工学部)の講堂で、新たに開設されたされた中央電信局(場所は銀座)の開局祝賀会が行われました。

この虎ノ門の会場では50個のアーク灯が点灯されました。これが「日本で初めて灯った電灯」です。このことを記念して日本電気協会が記念日に制定しました。

会場に電灯を使用するように命じたのは、当時の工部卿・伊藤博文。

命を受けた工部大学校のウィリアム・エアトン教授は、電池50個を用いて、講堂の天井に設置されたアーク灯を点灯するための調整を行いました。

まだ、この時期はいわゆる「お雇い外国人」の活躍が目立ちますね。

来場者はその明るさに驚きます。すでにガス灯は銀座の通りに設置されるなど実用化していましたが、アーク灯の明るさはガス灯の比ではありません。

この祝賀会に参列した来賓は「不夜城のようだ」と驚きを記録しています。

翌年にはエジソンの発熱電球が発明され本格的な「電気」の時代に

翌1879年には、アメリカの発明家トーマス・エジソンが白熱電球を発明(実用化できるような改良)し、日本にも輸入されました。

1886(明治19)年には、日本初の電気事業者として東京電灯会社が開業し、電気の時代が幕を開けます。この現在の東京電力のルーツにあたる会社です。



東京ディズニーリゾートの電力消費量と電気代

すごく夢の無いタイトルですが・・・w

「夢と魔法の国」の現実には電気で動いているわけでして、これがクローズアップされたのが、東日本大震災の後の電力不足、計画停電が実施されていたころです。

だいぶ前ですが、東京ディズニーリゾートでの消費電力は1日当たり約57万kwhとの報道がありました。

一般家庭5万世帯が1日に消費する電力に相当するともいわれています。東京ドームと比較すると、でナイターを1試合行う際に消費する電力の約10倍だそうです。

確かに、日没後のアトラクションの建物のライトアップや、エレクトリカルパレードなどを思い浮かべると、どれだけ大量の電力が消費されているのかと納得してしまいます。

さて、東京ディズニーリゾートの電気代はどれくらいになるのでしょうか。

もちろん、業務用として、しかも大口需要家なので個別の単価契約ができるので、一般家庭と比べてはるかに安い料金が適用されているはずですが・・・

仮に1kWhあたり15円として単純計算で見積もってみると、

570,000(kwh)×15(円)=8,550,000(円)

一日850万円もかかっていることになります。

1ヶ月で約2.5億円、1年間で30億以上かかる計算に!

しかし入場料収入からみればさほどでもありませんね。

コンセントの右と左の穴、穴の大きさが違う【電気トリビア】

電気の話って電圧が、交流と直流が・・・と難しいですよね。電気は目に見えないから頭の中で概念として理解しなければならないのがその理由のひとつだとおもいます。

そこで、目で見てすぐわかる「電気のトリビア」を1つ。

近くにあるコンセントを見てください。2つの穴の大きさが、右と左で違っていませんか?

ふだん注意深く見る機会があまりないので、まず気付きませんが、右の穴が、左の穴より、短くなっています。一般的なコンセントの穴の長さは、左が9ミリで右が7ミリとされています。

短い右側の穴は「電圧側」といって、電気をプラグに送る役割をしています。

長い左側の穴は「接地(アース)側」といって、機器の不良など通常より大きな電圧の電流が流れた時に、その電気を逃がす役割をしています。そのために余裕をもって大きめにされています。



もちろん、乾電池と違って、一般的な家電製品のプラグはどの向きに差し込んでも使えます。知らなくても全く問題ありません!

ただ、一部の高級な音響機器ではプラグの向きが音質などに影響するということで、正しい向きで差せるように印がついているものもあります。

ついでに、プラグの先端に開いている穴。これはコンセントに差し込んだプラグが簡単に抜けないようにする目的があります。



プラグを奥まできちんと差し込むと、コンセントの内部にある「ボッチ」という突起が、この穴に入って軽く引っかかるようになっています。

参考 北海道電気保安協会「交流の極性」



大塩平八郎の乱

1837年3月25日(旧暦:天保8年2月19日)、大坂町奉行所の元与力で儒学者でもあった大塩平八郎と、その門人らが江戸幕府に対して反乱行動を起こした「大塩平八郎の乱」が起きました。

この反乱は8時間余りで鎮圧されるのですが、世間に与えた衝撃は大きかったようです。

大塩平八郎

大塩平八郎は大阪の奉行所で与力だったのですが、今の官僚制度でいうと、ノンキャリア採用としてはトップクラスまで昇進した優秀なお奉行様です。

引退後は、塾を開き儒学のひとつ陽明学を教え、多くの門下生を抱えていました。

さて、このころ天保の大飢饉の影響で農村は疲弊し、各地で百姓による一揆が頻発します。

大阪でも庶民の暮らしは厳しい状態におかれ、大塩平八郎は、私財を投げ打って周囲の人々を支えていました。

もちろん大塩自身も元役人ですし、息子が職を継いでいたので、大阪奉行所に庶民を困窮から救うための嘆願書も出すなど、当時として出来る限りのことをしたわけです。

ところが、奉行所からは邪険に扱われるどころか、私財をなげうって町民を助けたことを売名行為あつかいされる始末。

そのさなか大阪奉行所は町民の救済よりも、第12代将軍・徳川家慶の就任への贈り物を優先します。

これでついに大塩平八郎はブチ切れて立ち上がったという経緯です。

思い詰めていたのか、作戦はかなり過激で、与力の私邸などに大砲や火を放つ計画でした。

ドン引きした門弟の一部が密告して、計画は奉行所の知ることになり、早期に鎮圧できたのですが、密告がなかったらどうなっていたか・・・。

結局、大塩の反乱は鎮圧され、大塩自身も自殺してしまいましたが、彼が残した檄文(自分の主義や行動が正しいと人々に主張し、同意を求める文書。また、人々の決起を促す文書)が各地に広まります。

幕府は回収に努めますが、どんどん複写が世の中に出回って収集がつきません。お祭りでも乱をまねておどったり、残党が暴れたり。

奉行所は大塩の死後も彼のスキャンダルネタをねつ造して流すなどしてイメージダウンを図り、必死に火消しに努めますが、効果はあまり上がらなかったようです。

この乱も、討幕への機運を引き起こした大きな事件のひとつだと言えるでしょう。そして明治維新へとつながっていきます。