マリモの日(阿寒湖のマリモが特別天然記念物に指定された日)
1952年3月29、北海道阿寒湖の「マリモ」が国の特別天然記念物に指定されたことから、この日が「マリモの日」になりました。
阿寒湖のマリモは、1897年に当時の札幌農学校(現:北海道大学)の川上農学博士により発見されました。
さて、マリモというとみなさんがイメージするのは丸い毛糸の玉のような形をした緑色の物体が、フワフワと水槽やビンの中で漂っているといった感じではないかと思います。
だから、発見者の川上博士も、毬(マリ)のような藻で「マリモ」と命名しました。
ところが、このマリモ、細かく見ると、細い糸状の藻が集まって丸い形になっているもので、ひとつの藻が丸い形になっているのではありません。
藻の「群れ」といいましょうか、それとも多数の藻が集まって生きている運命共同体といいましょうか。不思議な存在です。
後で触れますが、実は北海道以外にもマリモは生息していいます。
ところが、北海道以外のマリモは、丸い形ではなく細い糸状のままで生息しています。
北海道のマリモだけが、美しい丸い形になっているのです。その理由はわかっていません。
丸くなくても「マリモ」でいいのか?とも思いますが、生物の名称ですから、丸くなくても「マリモ」なのです。

天然記念物なのにお土産ってアリ!?人の手が加えられていた!
阿寒湖に行かれた方、お土産屋さんに丸いマリモが瓶に入っているのを見たことがありませんか。
ご自身で買ってきたり、お土産でもらった人で、まだお家のマリモが健在っていう方もいらっしゃると思います。
ところで、このマリモは上でも触れましたが「特別天然記念物」に指定されています。なのに、捕まえてきて売っていいの?と不思議に思いませんか?
阿寒湖のマリモは、日本の特別天然記念物ですので、行政の許可なく採ることはできません。
ですので、湖に生きているマリモをそのまま販売することはできないどころか、犯罪になってしまいます。
このため、お土産屋さんで売られているマリモは、なんと、人の手で丸めて作られたものだそうです。もちろん、マリモを丸める仕事もあるみたいです。面白いですね。
ところで、阿寒湖のお土産屋さんで買ったマリモは、放置しておいても結構長生きだそうですが、いつまでたっても全然大きくならないという人が多いようです。不思議ですね。
育て方(?)が良くないといつの間にかマリモの姿がいなくなってしまうなんてこともあるようです。まずます不思議です。
調べてみると、丸い形になる緑藻であるマリモ、直径が数十センチにも大きくなるのは、世界でも阿寒湖に生息するマリモだけだそうです。
天然の環境だからここまで大きくなるようで、人工的な環境でマリモを大きく育てていくことは、かなり難しいことのようです。
なぜアイスランドにマリモ?阿寒湖のマリモがアイスランドで生息する理由
上でも触れたように、「マリモ」という生物は、日本が原産地だとされていますが、なぜか、日本から遠く離れたアイスランドにも生息しています。
アイスランドのミーヴァトン湖という湖では、阿寒湖のマリモと同じ丸い形をしているそうです。
研究によると、阿寒湖でマリモを食べた水鳥がそのままミーヴァトン湖に移動し、水鳥のフンに含まれたマリモの細胞や、体に付着していた胞子を持ち込みました。
ミーヴァトン湖もマリモが成長するのにちょうど良い環境だったことから、マリモはそのまま生き延びて、数が増えていきました。
八百屋お七の日
八百屋お七の日の由来
1683(矢和3)年3月29日、恋人を思うあまり、自宅に放火した八百屋の娘お七が火刑に処されたことに由来されています。
逆転の発想!?再び火事になれば、想いの人に再開できる?
お七は1683年の大火(天和の大火)で焼け出され、親とともにお寺に避難しました。そのお寺での避難生活のなかで出会った寺小姓、生田圧之介と恋仲になります。
その後、お七の自宅と八百屋は再建されて新しい生活がはじまり、離れ離れに。お七と圧之介は、その後、手紙のやり取りなど繰り返しましたが、
自宅に戻ったお七は、圧之介に会いたくて仕方がありませんでした。想いが募るお七は、とんでもないアイデアを思いつきます。もう一度大火が起これば、避難先で再び会えるのでは?と。
そして、本当に自宅に火を着けてしまします。お七は、完全に正気を失っていたんですね。
さいわい、火はすぐに消し止められましたが、お七は御用となりました。
当時、放火は極刑だった。奉行は回避しようと試みるも・・・
当時は、放火の罪は、火あぶりの極刑に処されていましたが、17歳以下なら、極刑を免れることになっていた。
奉行はお七の事情を汲み取ったのでしょうか、彼女の刑を軽くするためにわざと「お主は17歳だろう?」とたずねます。
しかし、お七はその意味するところがわからなかったのでしょう。正直に18歳だと答えてしましました。
その結果、彼女は極刑に処されることになりました。
本や芸能で多く取り上げられるようになった八百屋お七のストーリー
八百屋お七は、井原西鶴の「好色五人女」に取り上げられたことで、広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能においても、多く使われるようにやりました。
しかし、なぞの多い話でもありましたから、ストーリーが幾らか変わっているところもあるようです。