今日は何の日?4月5日はヘアカットの日|その由来や背景がおもしろい

  • 2021年4月5日
  • 4月


「ヘアカット」と聞くと美容室で髪を切ってもらうこと思い浮かべます。

新しいヘアスタイルに挑戦しようとするとき、どんな髪型にしようかと美容室に行く日が待ち遠しくワクワクします。

「ヘアカットの日」という名前から、美容室に関係する出来事にちなんだ記念日を想像しますが、どうもそうではないらしい。しかもの由来は、明治時代までさかのぼる必要があるみたいです。

ヘアカットの日の由来 チョンマゲを切り落とそうと奨励したら、女性が短髪に!?

1872(明治5)年4月5日が「ヘアカットの日」とされています。明治時代の初期に当たります。

この頃の日本は、服装が和装から洋装へ、食事が魚から肉へと生活が少しずつ変わりはじめた時代でした。パン菓子のあんぱんが誕生したのもこの頃です。

この前年に、「散髪脱刀令」という法令が布告されます。男性に対して「髪型を自由にして構わない」という内容です、なお、これは「ちょんまげ」を辞めなさいと強制しているものではありませんでした。

ここまでの話から、ちょんまげを切っても良いとされたからヘアカットの日になったのかと思われそうですが、話はもう少し続きます。

散髪脱刀令で許可しているのは男性の断髪あって、女性の断髪を許可するものではありませんでした。女性には、超ロングヘアの日本髪をキープしていてください(半強制)、ということです。

ところが誤解がひろまり、女性も進んで断髪をする人が増えたそうです。


ヘアカットの日の由来 チョンマゲを切り落とそうと奨励したら、女性が短髪に!?のイメージ

「散髪脱刀令」によって、女性が髪を自由に切るようになるとは想定外だったようです。

当時、女性が断髪をすることを良く思わない人が多く、ついには法令によって女性が髪型を自由にすることを禁じることに。そして、1872年4月5日東京府が女性の断髪禁止令を出しました。

これは女性にとっては面白い話ではありませんね。これをきっかけに女性が髪を切るという自由を求める動きが盛んになり、いつの間にか、この日がヘアカットの日とされるようになったようです。

髪を切ってはいけないとされた日が、ヘアカットの日になったとは随分ややこしく、皮肉な話ではあります。

断髪届を役所に提出した地域もあった!今のブラック校則や地毛証明書の元祖?

この頃の時代からすでに「髪は女の命」と思われていたようで、長い髪を大切にしてほしいと言う思いも込められ断髪禁止令が出されたのではないかとされています。

長い髪を油をつけて結いきっちりと上でまとめている姿が美しいとされていたのではないでしょうか。

髪を切るには正当な理由が必要で、役所に行き許可をもらっていた記録も残されています。千葉県白井市からは、当時の断髪届が発見されたそうです。

発見された断髪届には捺印が押されていないことから、役所に提出した控えだったのではないかとされています。

この家のお嫁さんの断髪届だったようで、ご主人の病が治るように願をかけて髪を切ったことが許可されています。昔から髪には神が宿ると言われ願かけに使用されています。

それにしても、髪を切るのに役所に届を提出する必要があったとは驚きです。

今の時代でこれに似たようなことがあるとすると、最近話題になった地毛証明書やブラック校則が当てはまるのではないでしょうか。

生まれつき髪の毛の色が明るい生徒や、ウェーブがかった髪の生徒には地毛証明書の提出を求める高校が東京都全体の約4割もあるそうです。

地毛が明るいからと学校側から黒染めを要求されたこと受け、ブラック校則と言う言葉も生まれました。

これは一般常識からみると明らかにおかしいと思える校則や、生徒が納得できるような理由がないにも関わらず、学校のやり方に従わせようとすることを指しています。

こういった話を聞くと、断髪届を求めていた明治時代とあまり変わっていないような・・・。

髪型はともかく、本人の身体の一部である髪の毛の色について「お上(このばあいは学校ですが)」に申告して、許可をもらわないと堂々とすることができないというようなことが、今の日本、しかも教育現場において存在しているというのは、悲しい現実だと思います。



断髪禁止令から10年、鹿鳴館ができたころから女性の髪型も自由に

そもそも女性の日本髪と言うのは、和風の髪の総称を指します。

よく時代劇や朝ドラなどで出てくる、前髪も後ろ髪もきちんと整えられてアップにしているものは江戸時代から始まったそうです。

平安時代の長い髪を後ろに下ろしていた髪型では、普段の生活ではあまりに不便で、これをどうにかしようと考えた結果、結髪という髪型になったそうです。

この日本髪は、明治時代まで続きましたが、髪型をセットするまで時間がかかるだけでなく、今の時代のように毎日髪を洗えるわけではなかったため不衛生であると言った点や、髪を結うのにもお金がかかり経済的にも負担が大きかった点がデメリットでした。

今の時代の言葉を使うと「コスパが悪い」の代表ともいえるこの髪型。このような理由から洋風な髪型、自由な髪型へ移り変わろうとする女性が増えたと言うことです。

そして、断髪禁止令から約10年、1883年の鹿鳴館ができたことから、まず、女性にも洋装が認められるようになりました。

その2年後には、「婦人束髪会」という団体が設立され、従来の日本髪の不便さや不衛生さを主張し、洋風の髪型をすすめていったそうです。

ここでイメージされる女性の姿はと言うと、袴にブーツを履いて長い髪をおさげにまとめた、明治後期から大正時代の女学生さんたちのような感じといったらわかりやすいでしょうか。

ちょうどNHKで再放送している「花子とアン」の女性たちのファッションスタイル。

もちろん現在とは異なりますが、ずいぶんモダンになったと感じます。

昭和初期にはパーマが流行するほど女性はおしゃれに。ところが戦争の影が・・

髪型が和風から洋風に変化しだし1930年頃には、パーマのヘアスタイルも日本に伝わってきました。

わずか5年で日本中でパーマが大流行したそうで、女性の髪型に対する意識もどんどんおしゃれ思考に変わっていったでしょう。

ですが、ここで日本は第二次世界大戦を迎え気軽におしゃれを楽しめなくなってしまいます。華やかだったパーマスタイルはぜいたく行為と見なされました。

「欲しがりません勝つまでは」という標語が有名ですが、「パーマネントはやめましょう」という標語もありました。

ある地域では、パーマをかけている人の通行を認めないとした看板まであったそうです。

やがて終戦を迎えた日本に、パーマが再来し流行を追いかける女性で美容室は大賑わいだったそうです。

髪型ひとつで、ここまで奥深い話があるとは思いもよらなかったですよね。髪型も日本の近代化の歴史を物語るエピソードのひとつだったのです。

現代の私達の生活も、止まることなく変わり続けています。もしかしたら、男性も女性もまだ見たことのない新しい髪型へ変化していくのかもしれません。