普段、みなさんは地図を見ることはありますか?
道に迷ったときやどこかに遊びに行くときにスマホのマップを見ますよね。インターネットとスマホの普及で以前よりずいぶん身近な存在になりました。
そんな、私たちに身近な地図ですが、地図にも記念日が設けられていました。
いったい「地図の日」とは、どのような記念日でしょうか。
地図の日の由来は伊能忠敬から

地図の日は1800(寛政12)年4月19日、伊能忠敬が地図をつくるために蝦夷地(現在の北海道)の測量に出発したことから、この日が記念日になりました。
伊能忠敬が出発した最初の日であるため、別名「最初の一歩の日」ともいわれています。
56歳からの挑戦「大日本沿海輿地全図」

伊能忠敬は地図をつくる以前、今の千葉県にあたる上総国で商いをしていましたが、50歳のときに隠居し、江戸で測量や天体観測を学んでいました。
伊能忠敬は幕府の役人だと思っていましたが、実は商人だったのですね。
しかも、江戸時代の平均寿命が30歳~40歳といわれるなかで、50歳で隠居してから勉学に励むとは、かなりエネルギッシュな人だったのでしょう。
そして、56歳のときに江戸幕府の事業で地図を作るため、蝦夷地へ測量に行くことになります。これが、「大日本沿海輿地全図」の始まりです。
しかし、幕府からの資金援助はほとんどなく、測量に必要な器具や旅費は自分で負担していたそうです。
その半年後、東日本の測量を終えた伊能忠敬らは、その地図を将軍家斉に見せたところ、その地図の出来の良さに驚いた家斉は、続けて西日本の地図も作るように命じます。
それから、伊能忠敬は16年をかけて測量を終えましたが、測量したものをつなぎ合わせて完全な地図にする作業の中、73歳で亡くなってしまいます。
そして、伊能忠敬が亡くなった3年後の1821(文政4)年、ついに「大日本沿海輿地全図」が完成しました。
残念ながら、伊能忠敬は地図の完成を見ることはできませんでしたが、実際に出来上がった地図はとても精巧なものでした。
日本が開国した後にイギリス海軍が日本の測量を行おうとしたときに、幕府の役人が持っていた伊能忠敬の地図をみて、その精巧さに測量を中止した、という話も残っています。
ちなみに、1827(文政10)年に起こったシーボルト事件は、この伊能忠敬の地図をシーボルトが国外に持ち出そうとして起こった事件です。
確かに、現在の地図とほぼ変わらない正確さなので、欲しくなるのも頷けます。
現存する日本最古の地図は「クニ」が丸い!
現存する日本最古の地図はどんなものか、ご存じですか?
14世紀中ごろの室町時代にかかれたとみられる、「日本扶桑国之図」というものが日本最古の地図だといわれています。
この「日本扶桑国之図」は2018年に発見されたばかりで、日本地図の変遷をたどるうえで重要な発見と注目されています。
もともと、京都の仁和寺に所蔵されている「日本図」が日本最古とされていましたが、「日本図」は西日本が欠けており、北海道を除く日本全土が描かれているものは「日本扶桑国之図」が最古となります。
さて、この「日本扶桑国之図」ですが、見てもらうと一つ一つの「クニ」が丸く、海岸線や国境がはっきりしていません。

また、各国の人口や水田の数など、国別のデータは細かく書かれていますが、街道や主要な町の情報など、本来の地図にあるべきデータは全くありません。
「こんな地図、どうやって使うの?」と思いませんか。
実は、「日本図」も含めて、「日本扶桑国之図」などの古い地図は、地図のように使うものではない、と考えられています。
当時の日本では仏教が日本文化に強く影響しており、「円形」は仏教において世界観を表すものとして伝えられています。
そのため、「日本扶桑国之図」が描かれるときも、この仏教的な要素が影響し、「クニ」が丸く描かれたのではないか、といわれています。
どちらかというと、地図として使うのではなく、仏が描かれた掛け軸を眺めるようなイメージを持ってもらうと分かりやすいでしょう。