【プロスポーツ請負人】川淵三郎氏の経歴や実績、エピソードと発言録。

女性蔑視発言で炎上している森会長の後任として浮上

東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が女性蔑視ともとれる発言の責任を取る形で辞任の意向を固めたことで、後任候補として、選手村の村長の元日本サッカー協会会長の川淵三郎氏が急浮上してきました。

日本プロサッカーリーグJリーグ創設の立役者で、プロスポーツ界のために様々な活躍をしてきた川淵氏。その経歴や、エピソード、名言をふりかえります。


東京オリンピックの開催の是非についてはここでは触れません。森会長の発言の有無にかかわらず、世論を二分する状況であることに変わりはありません。このトピックをお読みの方の考えもそれぞれでしょう。

いずれにしろ、会長を退かなければければ、女性蔑視発言に対して責任を取らない日本という世界からの厳しい声を鎮めることが出来るでしょう。

そして、川淵氏が後任の会長に就任されれば、東京オリンピックをこのまま本当に開催するのか、それとも中止・延期を決断するのか、進むも退くのも、これまでの経験、リーダーシップ、国際的な人脈などから適任であるかと思います。

川淵三郎氏の経歴について

川淵三郎氏の幼少期からサッカーと出会った三国丘高校時代、早稲田大学に推薦されるまで

1936年12月3日 大阪府泉北郡高石町(現、高石市)にて川渕眞一さん・淑子さんの3男として誕生

1943年 大阪府高石町立高石国民学校入学

吉岡たすくさんが出演してた「NHKラジオの放送劇」に高校まで出演する
小6では、劇「海の子」の主人公を務めました。もしかしたら子役タレントになっていたかも。


出典:笹川スポーツ財団

1949年 大阪府高石町立高石中学校入学(野球部所属)

所属していた野球部で、全大阪大会に出場し準優勝を収める

1952年~1955年 大阪府立三国丘高校

1952年7月(1年生の夏)三国丘高校・サッカー部に入部

川淵氏の友人に「四国の高松で夏にサッカーの大会がある。今サッカー部に入れば四国に行けるぞ。」と誘われて、サッカー部に入部。

当時、三国丘高校はサッカー強豪校ではあったものの、日常的に練習に参加する部員はわずか10人程度。

試合の際には、辞めた部員やサッカーが得意な人を連れて来たりするなどしてやり繰り。

大らかな(大雑把?)当時の時代環境と、当時のサッカーは今では考えられないほど人気が低かったことが理由でしょう。

役割を終えたと思った川淵氏は、サッカー部を退部しようとします。

先輩に「扁桃線が弱いので医者から過激なスポーツは禁止されてます。」と言いに行くも、「おまえ、四国に行ったんやから何とか辞めんといてくれ」と懇願され、ずるずると続け、面白くなり始めたそうです。

運動神経が良かった川淵氏は他の部からも引っ張りだこ。ハンドボール部の新人戦にもかり出され、大量得点をあげる大活躍だったようです。ハンド部への入部は辞退。

高校3年に全国高校サッカー選手権でベスト8になり、新聞で「超高校級FW」と書かれました。

1957年 2浪後早稲田大学第二商学部商学科に入学 (元々は、大阪大学を目指していたそうです)

浪人時代は、サッカーが好きすぎて、予備校をサボって高校に行っては毎日後輩とサッカーをしていたようです。その浪人時指導した後輩は全国大会に出場でき「川渕さんが指導してくれたお陰です。」感謝される逸話も。

この頃、「三国丘クラブ」でもプレーし、残念ながら、都市対抗サッカー大阪府予選決勝では大阪サッカークラブに負けてしまいます。

ところが、大阪サッカークラブの設立者で日本代表の川本泰三さんから川淵氏を「早稲田大学にぜひ推薦したい」と言われ、早稲田志望に変更します。

早稲田大学時代に大活躍した川淵氏、卒業後、古河電気へ

1957年 早稲田大学ア式蹴球部でプレー(同期は、宮本征勝さん)

1957年 大学1年で関東大学リーグで優勝・東西大学決定で関西学院大学選では得点を挙げる活躍


出典:笹川スポーツ財団


1958年 大学2年で日本代表に初選出・関東大学リーグ優勝

1959年 ローマ五輪アジア予選出場

1960年 第7回チリW杯アジア予選出場・関東大学リーグ優勝(大学4年間で、3回優勝を果たします)

大学4年時に、欧州遠征でクラマーさんと出会い、「常に仲間の事を思いやって動け」と言う方針による指導に感銘を受け、人生の恩師となったそうです。

1961年3月 早稲田大学第二商学部商学科卒業・古河電気工業入社

1961年4月 横浜電線製作所勤務・横浜電線製作所サッカー部に入る

当時は、実業団がサッカー部に力を入れている時代でした。川淵氏は大学1年生の頃に既に東洋工業に勧誘されれていて、元々はそこに入るつもりだったそうです。

古河電気から熱い勧誘を受けます。長沼健さんが監督兼選手・メンバーに八重樫さんや平木隆三さんがいるなど、日本代表仲間が多かったので、古河電気を選びます。


日本代表チーム入り、1964年東京オリンピックに出場へ

1962年 インドネシア・ジャカルタで開催された第4回アジア競技大会に出場

1962年12月 結婚

1964年 日本代表に新人・釜本邦茂さんが出現し、センターFWから右ウイングに移ります。

日本代表として東京オリンピック出場・対アルゼンチン戦でゴールを挙げる

出典:笹川スポーツ財団

川淵氏は1964年東京大会の思い出として次のように語っています。

国立競技場での開会式の入場行進で、ゲートから競技場の中に入った途端、突然、大歓声とオリンピックマーチが聞こえてきた。その時、どう表現していいか分からないぐらいの感動と興奮を感じた。

日本選手団の服装は上着が真っ赤で、下が白。その色合いがまた興奮度を高めた。日本で、こんなに日本人が多く見ている中で、俺が選手として選ばれてここに参加できているといういろんな思いも、一挙に去来した。その感動に勝るものは僕の一生の中ではない。

1970年 現役引退(日本代表通算68試合、18得点)、古河電気工業サッカー部コーチに就任

膝・腰が限界だったようです。東京オリンピックの最終試合・ユゴースラビア戦の後にクラマー氏に「これでサッカーを辞めて仕事に専念します」と告げると、クラマー氏は「そんなにすぐにやめるな。君には、長時間かけてレベルアップして来た事をきちんと後輩に伝える仕事がある」と叱責を受けます。ここでコーチとして後継の育成への転身に決意します。


現役引退後、Jリーグの設立に尽力する

1972年~1975年 古河電気工業サッカー部監督

1976年~1979年 日本サッカーリーグ常任運営委員

この後、日本のサッカーの振興、プロリーグ、Jリーグ設立のために力を尽くします。

1988年10月 日本サッカー協会理事就任

1990年8月 プロリーグ検討委員会委員長就任

1991年11月 社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)設立し初代チェアマン就任

1993年5月 Jリーグ開幕宣言を国立競技場にて行う


日韓ワールドカップの開催から、Bリーグ創設への奔走、2020東京オリンピックまで

1994年6月 W杯日本招致委員会実行副委員就任

1996年7月 2002年W杯開催準備委員会実行副委員長就任

1997年12月 2002年FIFAW杯日本組織委員会理事就任

2002年7月 Jリーグチェアマン退任・日本サッカー協会会長(キャプテン)就任

2015年4月 一般社団法人ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ理事長就任

ブロバスケットボールリーグ「Bリーグ」の設立に尽力します。バスケットボール協会の分裂・紛糾をおさめて、理事に女性を二人抜擢します。

2019年12月 東京オリンピック・パラリンピック選手村村長就任

川淵三郎氏の名(迷?)エピソード。合宿を抜け出して結婚式、左遷、キャプテンは愛称?

合宿を抜け出して結婚式を挙げた川淵氏

川渕三郎氏の結婚式を前後して、日本代表サッカーチームの合宿の日程が組まれてしまいます。1日だけ抜け出して結婚式を行ったそうです。

結婚式翌日に、ディナモ・モスクワ戦に出場し、1点を挙げ「花嫁にいいお見上げが出来た」と語っていたそう。

後輩に昇進を譲って左遷をされる!?

自分よりも1つ年下の後輩を昇進させるために、川淵氏は左遷されます。「そのときの上司は最後まで自分と1対1では対話せずに逃げた」と。氏は「つらい人事でも1対1で話すべき」と言います。しかし出向を機にサッカー界に全力集中。人生万事塞翁が馬ですね。


川淵「キャプテン」は「愛称」だった

川淵氏は、日本サッカー協会会長に就任した後も「親しみやすい存在、開かれたサッカー協会を目指したい」という意向や、「協会の“会長”という肩書きは重く感じるから」「選手と対面した際、(肩書きが会長だと)選手が固くなってしまうから」という思いを持っていたようです。

そこで、川淵氏が「会長」に代わる愛称をマスコミに向けて募集したところ、「キャプテン」の呼称が採用されました。

採用理由として「舵取り役といったイメージで選んだ」のだそう。
以降、ほとんどのメディアや公式な行事、文書で「キャプテン」と呼ぶようになりました。

なお、NHKでは「キャプテン」を使用せず、会長在任中一貫して「川淵会長」と呼んでいましたが。

川淵氏語録

信念の人ともいわれる川淵氏、様々な言葉を残していますが、そのごく一部を紹介します。

「Jリーグに巨人は要らない」

「時期尚早と言う人間は100年たっても時期尚早と言う。前例がないと言う人間は200年たっても前例がないと言う」

「朝、こうだと思っても、夜、こっちの方がよかったとわかれば、判断をかえることを恐れてはならない。それでやれ手続きがどうだとか、一度決めたことなんだからという組織は衰退していきますよ」

「できないことにチャレンジして、できるようにする。それを仕事という」

「僕の人生の最後の大役ということでベストを尽くしたい」森会長の後任候補となったことについて