【歳時記】2月26日、今日は何の日?:咸臨丸の日、 二・二六事件など

咸臨丸の日

1860(万延元)年2月26日(旧暦)、江戸幕府がオランダに建造を依頼した日本初の本格的な洋式軍艦である咸臨丸が、太平洋を横断してサンフランシスコに到着した日です。

新暦で1860年2月4日に品川沖を出港し、3月18日に到着したので、38日間の長い航海でした。

現在のコンテナ船ですと横浜港からロサンゼルスまで約2週間で到着します。咸臨丸は木造の帆船ですから比較の対象としてはあまり適切でないかもしれませんが、化石燃料を動力として使用する鋼鉄製の船と比較して2.5倍しか日数がかからないのかと思うと、思いのほか速いです。

なお、1962年に堀江謙一氏が、小型ヨット『マーメイド号』で単独無寄港の太平洋横断に成功した時、航海日数は94日間でした。「小型」ですから、スピードも出ないでしょうし、出過ぎたらむしろ危ないでしょう。

それにしても、一人で大海原を航海することの孤独さと体力を考えると、太平洋を横断すること自体、驚異的なことです。

そういえば、キャスターの辛坊治郎氏がテレビ業界を引退して、再度挑戦するとかしないとか。



咸臨丸の太平洋横断、散々だったサンフランシスコまでの往路

この往路は38日間・4,629海里 (8,573 km)の長い航海でしたが、出港直後から荒天に見舞われ、艦の各所が破損してしまします。

そのうえ、日本人の乗員は疲労と船酔いでほとんど行動不能に・・・。

結局、艦の運用は、技術アドバイザーとして乗船していたジョン・ブルック大尉指揮下のアメリカ人乗員が代行しました。

背景にあった理由として、外航船の指揮系統が十分に練られていなかったことが挙げられます。組織だった当直体制が確立されていなかったため、荒天下での艦の運用で困難を来しました。

復路はハワイ経由での航海でした。(いいなあw)。往路の反省と、アメリカ滞在中に得た知見を踏まえて、当直などの運用体制も整備して臨みました。

45日間・6,146海里 (11,382 km)の航海は極めて順調に。ただ、好天に恵まれたこともあり、実際にその練度向上を確かめる機会はありませんでした。

間違った成功体験がアダになった咸臨丸の最後

この派米任務、太平洋横断という大航海を成功させたことで、幕府海軍に大きな自信を与えました。

ここまでは良かったのですが、往路でのアメリカ人乗員による助力が過小評価され、航海・運用の技量不足という重大な問題点を直視することは有りませんでした。

この成功体験が、戊辰戦争末期に幕府軍側が、艦隊の主力艦を海難で喪失する遠因となったと言われています。

咸臨丸も同様に、戊辰戦争中、銚子沖で暴風雨にあって観音崎で座礁し、破損して伊豆の下田港に漂着しています。



淡路島のうずしお観光船は「咸臨丸」です。

【公式ウエブサイト】うずしおクルーズ二代目『咸臨丸』進水式を行いました。

咸臨丸の名前の由来は「易経」から

「咸臨」とは、中国の古典「易経」より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味します。実際は、そうはいかずに討幕運動へと時代が進んでいきました。

咸臨丸、一応蒸気船でもあります

上で、「木造の帆船」と書きましたが、厳密には蒸気機関を持っています。蒸気機関から、洋式のスクリューに繋がっています。
ただ、このスクリューは入出航時に主に使用され、航海中は抵抗を減らすため水線上に引き上げる構造になっていますから、巡航中は帆船として風の力を受けて航行します。

太平洋往復を成し遂げて名が知れるも輸送船に

咸臨丸。幕府の船として初めて太平洋を往復したことからその名が知られています。幕府の練習艦として用いられた後に、戊辰戦争に参加しますが、軍艦としての機能は他艦に劣っていたことから、運送船の役割を主に担います。

しかも、新政府軍によって拿捕されてしまいました。こうして明治政府に接収された後、開拓使の輸送船として活躍しました。

そして1871年、咸臨丸は小樽に向かう途中の津軽海峡で遭難し、木古内のサラキ岬で座礁し沈没しました。幸いにして乗員乗客約400名は全員無事救助されました。

サラキ岬は現在公園になっており、咸臨丸モニュメントと、咸臨丸終焉の碑があります。



二・二六事件

1936(昭和11)年2月26日、クーデター未遂事件「二・二六事件」が発生しました。

陸軍の皇道派※の影響を受けた青年将校が、対立していた統制派の打倒と国家改造を目指し、1483名の下士官兵を率いて「昭和維新」と称して首相官邸等を襲撃しました。

内大臣・斉藤実や大蔵大臣・高橋是清らが殺害され、鈴木貫太郎侍従長(のち首相になり、終戦に尽力)が重傷を負いました。そして、永田町一帯が占拠されました。

皇道派思想とは、閣僚や議員ではなく天皇親政の下での国家改造を目指した活動思想です。

彼らは武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現して、政財界の様々な腐食現象や、農村の困窮が収束すると考えたのです。

まだ、昭和恐慌の影響が色濃く残り、特に東北地方の農村を中心に農家もかなり疲弊した状態でした。

昭和天皇の激しい怒りに触れて正気に返る陸軍。そして鎮圧へ

昭和天皇からしてみれば、反乱部隊が軍紀を破ったことに対する憤りはもちろん、ご自身の叔父さんのような存在だった鈴木侍従長が反乱部隊に殺された(鈴木侍従長は奇跡的に一命を取り留めます)のですから、その怒りはことのほか深かったようです。

遂には「自ら反乱軍を説得する」とまで仰せられます。

こうした昭和天皇の激しい怒りに触れて、おろおろしていた陸軍は急に正気に返り、反乱部隊の鎮圧に向けて一気に動き出します。

もともと、昭和天皇を担ぎ上げて「昭和維新」を断行しようと目論んでいた将校たちも、当の天皇陛下から反乱軍といわれては、なすすべがないわけで、こうして二・二六事件は一気に収束に向かいました。

鎮圧はクーデター発生から三日後の29日(この年はうるう年でした)。形勢が不利になったと判断した将校たちは兵を元の部隊に帰し、2名が自決、残りの者が自首して、その日のうちに鎮定されます。事件の首謀者は銃殺刑に処されました。

なお、この事件、当時しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていました。

生涯この日のことを忘れなかった昭和天皇

昭和天皇は、1981年1月17日、落成して間もない現在の警視庁本部庁舎を視察した際に、警視総監にこう訊ねています。「二・二六事件のようなことが起きても、この建物は大丈夫だろうね」と。

事件は数日で鎮圧されたものの、昭和天皇は生涯にこの日のことを忘れなかったからこそ、45年経った後にもこのような質問をされたのでしょう。

また、側近の日記によると、毎年2月26日には「御慎みの日」として、公務を休んだり、娯楽を控えたりしていたことが明らかになっています。



その他の2月26日の記念日

その他の2月26日の記念日として、血液銀行開業記念日、脱出の日、フロリダグレープフルーツの日、包む(ラッピング)の日、プレミアムフライデー、プルーンの日、ツローの日などがあります。

2月26日の誕生花と誕生石

2月26日の誕生花:「スノードロップ」「フクジュソウ」「ムスカリ」「ローダンセ」

フクジュソウの花言葉は「幸せを招く」「永久の幸福」「悲しき思い出」。

花言葉の「幸せを招く」「永久の幸福」は、古くから縁起のよい花とされてきたことに由来します。また、「悲しき思い出」の花言葉は、美少年アドニスの伝説にちなむといわれます。

2月26日の誕生石:「ルチルクオーツ」「アメジスト」

ルチルクオーツとは、ルチルという金色の針のような鉱物を含んだクオーツ石のことです。力が強くパワーストーン愛好家の中では高い人気を誇っています。

2月26日生まれの有名人・芸能人(敬称略)

岡本太郎 芸術家 1911年2月26日~1996年1月7日
竹下登 第74代内閣総理大臣 1924年2月26日~2000年6月19日
桑田佳祐 ミュージシャン 1956年2月26日
三浦知良 プロサッカー選手 1967年2月26日
藤本美貴(元モーニング娘、) 歌手 1985年2月26日
篠崎愛 グラビアモデル・タレント 1992年2月26日